六本木のジャジー・ナイトを築いたジャズ・クラブ、アルバトロス

六本木がまだオシャレな街だった70年代、ジャズ好きの"遊び人"達が集まった「アルバトロス」。この店は、日本には珍しい、大人のための真の遊び場だった。

日本は何もかも若者中心でヨーロッパやアメリカのように大人が遊べる場所がないとつねづね言われてきた。90年代半ばを過ぎても、この状況になぜか変化の兆しが見えない。そうした中、六本木にあった「アルバトロス」の70年代を知る人は、「あれこそ日本には珍しい、大人のための真の遊び場だった」と口を揃える。

70年代、当時粋な遊び人だった人達が感慨を込めて語るこの「アルバトロス」とは、いったいどんな店だったのだろう。

ジャズ・クラブ「アルバトロス」はもともと71年に神戸に誕生した。神戸のもっとも神戸らしい場所、北野坂に位置するこの店は、夜毎質の高いジャズ・ライブを提供し、たちまち地元のジャズ・ファンの溜り場になる。

オーナーの戸井千晶さんは大学時代にはモデルとして活躍し、卒業後はいすず所属のレーシング・ドライバーでもあったという、"カッコイイ"を地で行くような人物。ジャズが大好きで、31歳の時に会社を辞めていきなり「アルバトロス」を始めた。「神戸の街は小さい町で、友達のネットワークがありましたから、店はすぐに軌道に乗りました。」

この大盛況に自信を得て、戸井さんは東京進出を考えるようになる。そして神戸店開店5年後の76年、六本木に「アルバトロス」東京店をオープン。「店はロアビルの前、「ハンバーガー・イン」が角にある路地を入ったつきあたりのビルにありました。今はすっかり変わってしまいましたが、当時は隣のビルにサンローランのブティックが入っていたり、とても洒落た雰囲気の場所でしたね。」神戸の店が30坪ほどだったのにくらべて六本木の「アルバトロス」は80坪もある大きな店。フル・オーケストラを入れたこともよくあったという。

「広いテラスがあったので、月の光を浴びながらジャズを聴くなんていうロマンティックなこともできました。」インテリアはすべて戸井さん自身が考え、大好きなグリーンで統一。スタンウェイのグランドピアノもグリーンだった。戸井さんの幅広いネットワークによってオープニング・パーティーの夜から、店は華やかな雰囲気に包まれた。集まったのは俳優や歌手、人気モデル、ファッション関係者、さらには今まではそれぞれが経済界のリーダーになっているようなエリート・ビジネスマン達。活躍する世界は違っていても、ジャズという共通言語で集まった人々の心はつながっていた。以来、レベルの高いジャズ・ライブと他の店にはない陽気で洒落た雰囲気を求めて、たくさんの"遊び人"達が「アルバトロス」に集うようになる。

クリスマスやハロウィーンにはそんな常連達を集めてパーティーが開かれた。日本ではドレスアップして行く場所があまりにも少ないが、クリスマスの「アルバトロス」では、男性はタキシード、女性はロングドレス。ドレスアップすることの楽しさを存分に味わえた。ハロウィーン・パーティーではみんなが扮装した。当時店のスタッフはほとんどが昼間は英語学校で英語を教える外国人達で、彼等の存在がパーティーをさらに盛り上げることになった。一方、開店3周年を祝うパーティーは超スタイリッシュに行われている。場所は当時のヒルトン・ホテル(現在のキャピトル東急)のプールサイド。ここにフルオーケストラを入れての大パーティーだった。

また、フラリと「アルバトロス」へ行って、遊びに来ていた来日中の一流ジャズ・ミュージシャンの演奏を聴くチャンスに恵まれた人もたくさんいた。たまたま、オスカー・ピーターソン、ニール・ペデルセン、ジョー・パスというビッグ・ネーム達の演奏に巡り会えた人の感激はどれほどだっただろう。店にはVIPルームと称する部屋があった。ここは芸能人の秘密のデートに使われることもあったし、常連商社マン達の仕事場にもなった。彼等はここにこもって時差を調整し、深夜ヨーロッパやアメリカの取引先に国際電話をかけていたという。

「今思うと、いい意味での遊び人が本当にたくさんいましたねェ」と、戸井さんは70年代を振り返る。

2年程前、「アルバトロス」は六本木から赤坂に移った。店は小さくなったが、相変わらずグリーンで統一されたインテリアは落ち着いた雰囲気でとても居心地がいい。「今の時代はこの位の規模の店がちょうどいいですね」と戸井さん。もちろんこの新しい「アルバトロス」にも70年代からの常連の"遊び人"達がたびたび顔を見せている。

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アルバトロス 赤坂のジャズバー | JAZZ BAR
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